今年ももうすぐ終わります。2011年、色んな出来事がありましたね。東日本大震災がありました。日本中が悲しみに包まれ、今も苦しむ方々がたくさんいます。
葵ちゃんは小学生になりました。
そして、私達家族にとって重大な出来事がありました。
今年3月30日に、私の母が病気で亡くなりました。61歳でした。このブログにもよく出てきた「ばぁば」です。葵ちゃんを我が子のように可愛がり、葵ちゃんはばぁばに育てられたと言ってもいいくらいです。
母は13年前に骨髄の病気を患い、13年間抗がん薬を飲んでいました。
そして去年の7月、毎月の血液検査で、血液に白血病細胞がみつかりました。
ちょうど葵ちゃんが夏休みに入り、仲の良い友達の家で遊んでいたときに父からの電話で知らされました。その晩私は泣いてお母さんの所に帰りました。泣きながらお母さんに謝りました。これまでのわがままや親不孝、苦労や心配をかけたことを。母は「大丈夫だよ。心配しないで、絶対に死なないから!それよりあんたの体の方が心配だよ。」と、私を抱きしめてくれました。
自分のことより家族、他人のことを大事にし、いつも自分は後回し。自分のためより人のため。家族に尽くす母だったから、母のお陰で生きてこられた私達は本当に途方にくれました。
それからは後悔しないようにたくさん母に会いに帰りました。
そして去年の10月末、とうとう入院することになりました。それから5ヵ月間の闘病でした。12月からは抗がん剤治療が始まり、本当に苦しみました。数ヶ月前まで葵ちゃんと公園を走り回っていた母とはもう別人でした。
それでも母は希望を捨てずに治療に耐えました。
私は毎晩葵ちゃん達のご飯とお風呂を終わらせてから面会に行きました。
帰り際には必ず「冷蔵庫の中から何でも好きなの持って行きなね。」と、聞き慣れた言葉でした。
お母さんだな〜って思いました。
治療はあまり効果が無く、病気は進みました。
3月に入り転院し、葵ちゃん茜ちゃんも面会できるようになり、可能な限り連れて行きました。
そして3月30日の午後、葵ちゃんを連れて面会に行きました。帰るときに「お母さん、また夜来るでね!葵ちゃんも来たからね!」と声をかけると、葵ちゃんの顔をじっと見つめ、大きくゆっくりうなずきました。
その帰り道、血圧が下がり始めたと電話をもらい、急いで色々済ませて病院へ行きました。妹と二人、もうどうにもならない母に一生懸命話かけました。父も間に合いました。父と母はいつも協力しあい、色んなことを乗り越えてきました。家族全員、母を中心に手を取り合い、肩を抱き合いながら「お母さんは絶対に一人じゃないからね。いつもそばにいるからね。」何回も何回も呼びました。瞳孔が開き、もうまばたきすらできないお母さんの左目から涙がこぼれ落ちました。
そして、22時45分、天国へと旅立ちました。その瞬間、命のバトンを渡されたような気がしました。
もう決して動かないお母さんの手・・・この手で戦後の貧しい時代を生き、青春があって、お父さんと出会い、私達を育て、家族のために一生懸命、ただただ一生懸命に生きてきた。
私が子供のころ、風邪で寝込めば、その手でおでこをなでてくれました。
寒い日はその手で温めてくれました。
妊娠した私の大きなお腹に手を当ててくれました。
私達の大切なお母さんを苦しめた病気が本当に憎いです。
お母さんの無念さを考えると、やりきれません。
私たちは、まだ温かい母を抱きしめました。
今日から2012年、前を向いて私達は未来に向かって歩いていかなくてはいけない。
それが残された人間の使命・・・
生きるって何だろう。
絶対に忘れてはいけない、ただ何となく過ぎた一日は、嫌々過ごした一日は、お母さんが、生きたくても生きられなかった人達が生きたかった一日だということ。
お母さん、いつか会える日まで、頑張るね。その時は一緒にコーヒー飲もうね。
純子さん、今更ながらだけどこの記事読んで泣いてしまいました。とっても嫌なことがあったんだけど、生きてる限り乗り越えれるね。頑張ります!
どうしたよ~昔から悩みなんてなさそうに見えて、実はけっこうへこむこともあったよね。Yukoの「嫌なこと」ってまたとんでもないコトだったりして?
Ausもどる前に会えたらいいけどね・・・来週のどこかですみちゃんにアポとってみようかな。
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